自分のためにも、メモ。愛で考えるのやり方。

愛で考える時のコツは、
まずは心に溜まったモヤモヤを吐き出す。
文章にしたり、人に話したり。
モヤモヤへの我慢が無くなり、心に余裕が出来たところで、
「良い解決をするにはどうするか」を、考えるのだ。
良い解決を考えようとすることがすでに愛なので、そのラインに乗ると、ヒントや、気持ちを明るくする助けなどが、DNAの発現であるシンクロニシティーを使って色々と起きる。
私は、この時点で、エネルギーの充足を感じる。森羅万象から応援してもらい愛が補充されるような感覚である。





例えば子育てについて。
Aタイプの夫が再現している「義母の子育て」が、私の苦手な「禁止」と「教育」に満ちていて、ウンザリしかけていた。
夫が起きて、息子と顔を合わせるなり、「夜はちゃんと寝なさい」とか「目をこすらない」とか「足癖が悪いから直しなさい」とか「キャーキャー言わない」とか、口を開けばずっと否定ばかりで、
「おはよーは?おはよー言ってごらん」「指さしの練習。あれ指さして」「拍手!拍手は?拍手しないの?」とか「このオモチャでこうやって遊びなさい」とか

まるで朝から晩まで勉強しろだの行儀が悪いだの言って追いかけ回してくる教育ママのようで、本当にウンザリしたのだ。


特に、何度も繰り返される「◯◯を取ってきて」の指示は、まるで犬の「取ってこい」のしつけに見えて、
子育てと、実家で義母がやっている「犬のしつけ」を、同列に思っているのではないかと不安になった。(犬を飼っている人が、犬を子どものように可愛く思うのは別に構わないが「子どもを犬のように扱う」のはおかしいだろう。しかし、その差が分からないのかもしれない。)

挙げ句の果てには、その指示になかなか従わない息子を、そのたびに自閉症ではないか自閉症ではないかと言い続けるので、
「健常こそ最上級である」みたいなその差別的な思考にも呆れてしまい、
健常と言われる中にも個性があり障害の位置づけと同じくらい特殊なものも多数あるのだ、夫や義母自身だってどちらかというとそうではないか、自分を棚に上げて何を言っているんだ、

息子が自閉症だったら一体どうだというのか。愛する息子であることは変わらないし、自閉症なら自閉症の息子と幸せに生きれば良い、

だいたい、おはようとか拍手とか、そういうのは別に教育しなくても、そのうち自然にやるのだし、早くできたところで親の自己満足に過ぎないのだから、息子がそれをやらないことが自分の不安をあおるくらいならやらせなきゃいいのに、と思ったのだ。(モヤモヤの吐き出し)


ずっと、「夫がそうしたいわけではなく、彼自身がそうやって育てられ、それ以外の接し方を知らないのが原因だから、彼が悪いわけではない」と考えてスルーしていたが、あまりのしつこさに、どうにもこうにも、辟易してしまった。
息子の意思や自由はどこにあるのだ。ありのままの息子を認めてもらうことはできないのか。
なんという、支配的な子育てなのだろう。(モヤモヤの吐き出し)



しかし、私がこう思っているのを息子が敏感に察し、私がいる場でパパと絡むことを躊躇するようになってきた。
これはマズイ。息子の精神に良くない。しかし夫が悪いわけでもないし、かといって「夫は悪くない」の考えだけでは不快感を耐えられなくなってきた。これをどう打開すれば良いのだろう。(「ひたすらの我慢」から、愛に向かい始める)

打開するには、
「義母の子育て」そのものを、一つのやり方として容認し、嫌悪感を無くすしかない。
それには、夫の原因になっている「義母の教育」を愛すること、つまり義母を好きになり、彼女なりに子どもを幸せにしようと努力したことを、愛おしく思うことだ。
義母を好きになるには、「私と違うその性質が、私に出来ないことを手助けしてくれること」を、現実の出来事で実感するのが効く。自然に、感謝と尊敬が、わいてくるのである。(愛で、方法を考えている。)



ここまで来ると、実際に、その現象が起きる。
ボールプールを片付ける過程で、
「きちんとキレイにたたむ」しかできない夫と
「素材の性質に合わせて適当にたたむ」しかできない私が
協力しあって、ボールプールを畳んだのである。
(DNAの発現によるシンクロニシティー)



「私が出来ない部分」を助けてもらったことに加え、
一生懸命キレイにたたみ、その先のぐにゅぐにゅ収納が分からず、困った末に、畳んだ形のままそっと隅に片付けている夫をみて、
「ああ、『ちゃんとしろ攻撃』は、わざとではないのだ。一生懸命なのだ。自分の分かる方法を、一生懸命やっているのだ。義母もそうだったのだ。」というのを、ジーンと心に感じられたのである。
また、自分が、相手の不得意な部分の役にたてる喜びも、感じられた。(森羅万象による応援。愛が補充される感覚。)


エネルギーが補充され、考え方の方向が定まったが
まだまだ、嫌悪感はぬぐいきれないので、更なる、愛の情報を集めている最中だ。エネルギーが補充されているので嫌悪感に負けず愛の情報集めを続けられる。

例えば
・私が良しとする教育で失敗した長男の例を思い浮かべる。私(Cタイプ)にとっては嫌悪する教育内容でも他タイプにとってはそれが必要なパターンが、確かにある。私にはできないその教育を夫(義母)が代わりにやってくれているのだと考える。

・テレビで大久保さんが、一人だけ間違い解答を出してしまった子を助けるために自分もその解答を出し直したのをみて、ああ優しいなあ、愛だなあと幸せな気持ちになった。素敵な人だ。
その後洗濯物を干しながら、では本気で競争をして勝とうとするタイプには愛が無いということなのだろうか?を考えてみたが、夫が子ども達と遊ぶときは割と本気だが、それはそれで、本気で子どもと遊んでいるその事が子どものためになっていて、なにやら子どもに人気すらあり、そう考えるとそれはそれで愛なのだ、本人が愛と思ってやっているかは分からないが、子どもをバカにした大人が邪険にてきとうに子どもを扱う遊びよりはずっと、愛の時間なのだと思った。そして本気の勝負が大好きなのは義母も同じである。本気で卓球やら駆けっこやらをやってくれるおばあちゃんにきっと子どもは喜ぶことだろう。
私の思う「大切に慈しむ」ことだけが愛ではない、違うパターンの愛もある、いろいろなパターンの愛があるんだということを、情報の一つとしてストックした。
(補充された愛のエネルギーを助けに、嫌悪から愛への変化を、確かなものにしていく。)


愛の情報収集をさらに追加。
・あとの記事に書く「夫のチンピラ化事件」により、Aタイプの「愛」に再び感動した。この感動、尊敬、感謝の気持ちが、夫がコピー再現する「不快な内容」の、深い理解の、原動力になるのだ。
そう考えるとこのチンピラ事件そのものが、森羅万象による応援であるとも思えるのだ。


・夫がパチンコに行くこと。
夫が居ると「ダメダメダメ!」になりがちな息子の探究心を、夫が居ない時間に大解放してあげられる。さわりたい物を何でもさわり放題の時間が出来るのである。
この考え方は、どんなに頑張ってもぬぐいきれない嫌悪感が残る場合に、逆の発想でそれを「ラッキーなこと」にしてしまう、という手法。
これは、パチンコに行くこと自体も肯定的になるので夫婦円満と子育てに一石二鳥の活用法と言える。
(愛の情報を集め続けることで、思考が愛のレールに乗っているので、いろいろが好循環に回り出す)






ちなみに、「モヤモヤの吐き出し」の時点で、相手に直接ぶちまけるという方法もあるけれど、
私の場合、他人との言い争いが苦手だからやらないのと、
Aタイプの夫は、私のやったことをコピーする性質なので、イライラと不満をぶちまけた場合は
私も夫から同じ事をされることになるので、
それが嫌なので、やらないのである。
Aタイプと幸せに暮らすコツは、相手に求める自分の理想を、まずは自分が、やってみせることである。





こうして書き出すと、「愛で考える」を実行するには、「発想の転換」や「他者の立場を想像する」などの、状況把握に関する細かい回路がたくさん必要であることが分かる。これは主にCタイプが使う方法ということだ。(他タイプは、基本的な状況把握能力を退化させない環境で育った人ならば、ある程度は実行可能だろう。)
他タイプの場合は文中にも出てきたが「本能で動いた結果が自然に、愛になっている」パターンが多いだろう、だがもちろん、それが愛ではなく害になっていることもあり、つまり
「それが愛になっているか害になっているかを本人が判断できず、愛のエネルギーを取り入れ愛のポイントを貯めるのは「偶然に任せるしかない」ところがある」ので、
状況把握できるタイプと協力して、自分の本能が愛として活用されるよう、システムや配置をきちんと作っていくことは、必要なのである。

どんなタイプが、本能で何をやっても、それがちゃんと、愛として活きるという、「愛で満ちた世界」(オームの金の粒を愛とした場合、青き清浄の地へ続く「金色の野」ということになろうか。)、にするには、その協力体制がやはり欠かせない、ということなのだ。いつも言っている、適材適所による協力体制である。