心の中、つれづれ

前記事の流れだと、
主人は金にうるさいが私は出費に寛大かのようになってしまうのだが

彼のケチケチは単なるコピーであり現実に出費に臆病なのはCタイプの私のほうである。

現金で車を一括購入した事が説明つかないじゃないか、と思うかもしれないが
「自信をもつ」「愛を受け取る」ミッションが持ち上がった時に、心理的なことをいろいろ考えた末、私の中で壁になっていた「自分のためにお金をつかう」ことを実行すべき時だと思って行ったことなのである。

20年くらいずっと、
現実社会で金を稼ぐことが苦手な自分と、しかしストレスを感じやすいのでひたすらのガマンはできず、ストレス回避のための資金が必要(遊ぶ、とかではなく「これがあれば精神状態を維持できる」という出費。搾乳器2台購入などがそうである。不安に潰されやすいため不安回避のための出費。)が必要であるジレンマから、貯金を大きく切り崩すことが出来なかった。

貯金=不安のための安定剤・使いすぎてはいけない、という役割から、「まとまった現金で現実の自分を快適にすること」へと、役割を変えたのである。
もともと自分の快適さに出費できるタイプからすると意味不明かもしれないが、とても勇気のいるミッションだったのである。

自分への信頼がなければ出来ないことであり(この安定剤が無くても私はもう大丈夫、という自信)それはつまり配偶者である夫への信頼でもあるのである。

この人と一緒なら大丈夫と思えたのである。それは相手の収入が安定してるからとかではなく、この人と一緒にいる自分なら大丈夫だという自信を持てたからなのである。
本当に、以前は手放すことがとても怖かった貯金を、驚くくらい、何の心配もなく使えたのである。


出費の目的が主人が喜ぶ「車」であることも、ポイントだったのである。私だけが楽しい出費では全く嬉しくないのである。私が快適になり主人も嬉しい出費、というのが重要ポイントだったのである。この心理的な理由は分からない。もしかしたら、自分だけに使うことはまだ怖いと思っているとか、そういう「逃げ」なのかもしれない。そこは分からないが、主人が嬉しがってくれたおかげで、踏み切れたのである。


主人も言っていたことだが、車が来てすぐに主人が死んだらどうするのか、という問題にも、
ほとんど不安を感じないのである。
それはそれこれはこれ、これは自分のカラを破るミッションとしてやり遂げたことだから、これはこれで完結なのである。車の購入と考えたら無駄になるのかもしれないが、それは全く関係ないのである。


Aタイプの主人と歩んでいる道のりは、私目線で語ると私ばかり活躍しているように見えるが
Aタイプの純粋さ・素直さのようなものに触れながら私自身も成長させてもらっているのである。
愛で歩んでいる成果だと思う。


前の結婚では出来なかったのか?を考えると、
私自身が病気だったので不可能だった、という結論である。
最適な変化のきっかけはCしか持ち得ないのだが病んだ状態のCにそれは無理なのである。(前例を見本として取り組めば他タイプでも可能だろう。)
病気を治した後なら可能であったが、タイプ別について理解を深める前に、次に踏み出す機会が訪れてしまったこと、
人間として好意を持っているが夫婦としては別の形を理想としていたので、
「どのタイプでも理想に近い関係が可能かもしれない」と分かる前に次に踏み出してしまったこと、
しかし、いま考え直してみても、おそらく前夫のタイプと、それにプラスした「彼が経験で培った性質」から考えると、私の理想とする関係は難しいだろう、やはり友人・知人として尊重した関係が一番うまくいくだろうな、というのが結論である。(簡単に言うと、私は子どもみたいな純粋さのあるかわいい人が好きなのだが彼のプライドがその自分を許さないだろうし私も、彼がかわいい人になるのを見たくないのである。)





ちなみにここ数日間、主人はとても感じが悪かったのだが、それは私の話した「家族1の距離感がおかしい」の発言を受けて主人が自分の距離感を模索した結果なのである。
「家族1の距離感がおかしい」の話題の最中から、主人は自分の距離感のことばかり気になってしまって私が理解してほしい「家族1とは距離を置きたい」はなかなか理解してもらえなかったのである。
つまり主人にとっては、家族1がどうであろうがそれはたいした問題ではなく私が何を好きで何を嫌いかが大問題なのであり、家族1について話した情報を自分にあてはめて、必要ない試行錯誤をしてくれた結果、感じが悪くなったのである。


困ったな、そういうつもりじゃなかったのにこんなことになってしまった、とは思ったがそんなトンチンカン主人がとても可愛かったのである。
主人はよくプロ野球のピッチングをマネしているのだが愛情の関係においても主人が投手で私が捕手なのである。BUMP OF CHICKENの歌にあるように、到底取れそうにない球ばかり投げてくるのだが私は名捕手なのでそれをほとんど捕るのである。捕れる、ということはその球が持っている純粋で素直な彼の本質に触れているということなのでそれに触れた私は浄化されてひとまわり成長できるのである。


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最近は、主人が話す「義母の受け売り」にも、その奥にある善意を感じ取ることができるようになってきた。
以前は、感じ悪いなーなぜこんな言い方しか出来ないんだろうと思っていた「あっそ」「ふん」などにも、義母なりの
「私はよく分からないが、こうしておくことが相手は嬉しいのだろう、ならそれでいいよ」、みたいな感覚を、肌で感じることができるようになったのである。
私にとっては感動的な進歩である。
義母の物言いが苦手で苦手で、主人が義母のコピーをしゃべるたびに不快で、ツラい思いをしていたからである。
そのつど深く考えてこれも善意なんだ、と納得していたものを、肌で瞬間的に好意を感じ取れるようになったことは、本当に嬉しいのである。